岡崎ルネサンス

岡崎の“〇”にナるまちのものがたり

知られざる昭和の歴史パーク、柱町の「記念碑公園」

インフォメーション
場所: 愛知県岡崎市柱町字東荒子174
ホームページ:
知られざる昭和の歴史パーク、柱町の「記念碑公園」

JR岡崎駅からほど近い丘の上にある「記念碑公園」をご存知ですか?近所の人しか利用しないであろう小さな公園ですが、実はここには、岡崎駅周辺エリアの大発展を語る時に外せない重要なモノがあるのです。

 

 

 

「岡崎まちものがたり」の
マップページは情報の宝庫

 

 2017年1月に発行された「岡崎まちものがたり」では、各学区版とも4・5ページに趣向を凝らしたオリジナルマップを掲載しています。今回ピックアップする羽根学区では、そのページを「岡崎駅前まち歩きマップ」と銘打ち、14のスポットを紹介しています。その中のひとつが柱町にある「記念碑公園」です。
 実はこの公園の正式名称は「柱公園」。しかし岡崎まちものがたりの説明文に「地元では単に『きねんひ』と呼ばれている」と記載されています。ここにはいったいどんな記念碑があるのか?岡崎まちものがたり本編では紹介しきれませんでしたので、今回改めて訪ねてみました。

立派な門柱が建つ「記念碑公園」の入口

 

 

 

戦争の時代を語る
2つの巨大な石碑


 記念碑公園があるのは羽根学区の南部に位置する柱町字東荒古。JR岡崎駅東口から南西へ徒歩5分ほどの距離です。
 岡崎駅前は大規模な区画整理事業が行われ新しい町並へと変貌しましたが、柱町字東荒子の一帯は対照的に、昭和の住宅地の風情をほどよく残す閑静な地域。そんな家並のいちばん高いところに、そびえる木々に包まれた「記念碑公園」があります。まず目に飛び込んでくるのは、3m近くもある2つの大きな石碑。


威厳のある2つの石碑。鉄柵と庭園風の築山が厳粛さを際立たせています

 

 

 左は「誠忠碑」。盤面いっぱい書かれた太い文字が強烈な印象を与えるこの碑は、旧額田郡岡崎村(現在の羽根・岡崎学区を中心とした自治体)から日清・日露戦争へ出征した人を称えるもので、1910年(明治43)に建立されたもの。
 右は、岡崎・羽根両学区によって1955年(昭和30)に建立された日露戦争および第二次世界大戦の「英霊碑」。表面には、約350人の戦死者の名前が地区別に隙間なく刻まれています。その中には20人の「戦災死」の名前も。おそらく1945年(昭和20)の岡崎空襲で亡くなった方なのでしょう。筆者がここを訪れたのは終戦記念日の数日前。蝉しぐれの中、身が引き締まる思いで石碑を見上げました。

英霊碑に刻まれた「戦災死」の文字

 

 

 

地味ながら超重要な歴史アイテム
「耕地整理記念碑」を見逃すな

 

 あまりに大きいこの2つに目を奪われてしまいますが、園内にはもうひとつ重要な石碑があります。それは、1933年(昭和8)に建立された「柱町耕地整理記念碑」。これこそが柱公園が「きねんひ」と呼ばれている所以なのです。

当時の県知事が文字を書いた耕地整理記念碑。製作は中町の石工、杉浦磯治郎

昔は鎖と柵で囲まれていたようです

 

 

 柱町の耕地整理は、現在の柱町字東荒子・福部池にあたる区域で昭和初期に行われた事業です。この時代、住宅地の造成を目的とした耕地整理事業(現在の土地区画整理事業)が各地で行われ始めていました。その走りが柱町耕地整理事業で、戦前の羽根町ではこのほかに現在の岡崎工業高校の西側で事業が行われています。
 もともとこのあたりは岡崎市南部に横たわる山の端にあたる場所でした。一帯は山林で、昭和に入るまで人が住まない地域。そんな場所を、当時の人たちはなぜ宅地にしようと考えたのでしょうか。羽根学区の「岡崎まちものがたり」をじっくり読むと、その理由が見えてきます。

東海道本線が開通して間もない頃の岡崎駅周辺。一帯はまだ全くの手つかず状態(2万分の1地形図「福岡村」/明治26年/大日本帝国陸地測量部発行)

 

 

岡崎駅の開設をきっかけに
のどかな農村が大発展

 

 かつて羽根学区と岡崎学区のあたりは水田が広がる純農村地帯で、村の東に広がる山には溜め池が点在していました。地域が変貌するきっかけになったのは、1888年(明治21)に開業した岡崎駅。岡崎の城下町から4km近く離れた農村が、突如として岡崎の玄関口に躍り出たのです。

戦前の岡崎駅 ※1

 

 この便利な立地に人々が着目しないわけはありません。ほどなくして駅の周囲に民家や商店、運送会社などが次々に建ち並び、にわかに活気づきました。
 そして明治も終わり頃になると、大小の工場が立地するようになります。1907年(明治40)の三河織産を皮切りに、岡崎紡績(のちの日清紡針崎工場)、帝国紡績(のちの日清紡戸崎工場)、東海製菓(のちの森永製菓)、服部鋳造(のちの服部工業)、三河製粉、三龍社針崎工場などが次々に操業を始め、岡崎駅周辺は一大工業地帯の様相を呈してゆきました。

工場が立地し、町も広がり始めていた昭和初期の岡崎駅周辺。柱町耕地整理の事業エリアにも道路が造られています(岡崎市街全図/昭和2年/三陽堂書店発行) ※2

記念碑公園付近から発展著しい岡崎駅方面を望む ※3

耕地整理が始まる前の柱町字東荒古。奥に広がる林の向こうが岡崎駅 ※3

 

 

 

駅近ニュータウン、ついに誕生!
岡崎の宅地開発はここから始まる


 このように目覚ましい発展を遂げるなか、増加の一途をたどる人口の受け皿として浮上したのが、柱町の耕地整理事業だったのです。
 1931年(昭和6)から工事が始まり、木が生い茂る丘を切り開いて整然とした区画が造成されました。新しく生まれた駅近・丘陵地の住宅地は、今ならさしずめ「柱ヒルズ」といったところでしょうか。

耕地整理の工事風景。後ろに見えるのは日清紡針崎工場 ※3

造成された宅地。記念碑公園の南西あたりから北を眺めたもの ※3

現在の吉村医院付近から東を眺めたものと思われます ※3

 

 

 このとき、エリアの最高所は公園用地として確保されました。住宅地の造成と公園整備というワンセットの都市計画は、すでにこの時代から行われていたのです。1933年(昭和8)に事業の完成を記念した碑が建てられると、ここは「記念碑公園」あるいは単に「きねんひ」と呼ばれるようになり、別の場所にあった誠忠碑もここに移されました。
 こうして「記念碑公園」は岡崎南部地区のシンボリックな場所として戦前戦後を通じて地域の人たちに親しまれ、1957年(昭和32)には市が管轄する都市公園の「柱公園」となります。

記念碑公園付近の工事風景。切り崩された土砂はトロッコで運ばれたようです ※3

戦時体制が色濃くなりつつある時期の岡崎駅周辺。この頃にはすっかり住宅地に。羽根小学校の東にも区画整理されたエリアが見えます(岡崎市全図/昭和15年/本文書店発行) ※2

柱町耕地整理エリアの現在の風景

 

 岡崎市内で戦前に大規模な宅地開発が行われた地域は少なく、その先駆けが柱町の開発であったことはあまり知られていません。その意味でも「記念碑公園」は、羽根学区のみならず岡崎市にとってのメモリアルパークでもあるのです。

 

 

 

 

 

〇使用図版
※1 岡崎市広報課所蔵
※2 岡崎市中央図書館所蔵
※3 岡崎市中央図書館所蔵・柱町耕地整理組合記念絵はがき

 

〇参考文献
羽根 創立六十周年記念誌/編集:羽根小学校創立六十周年記念事業実行委員会
岡崎南風土記/編著:大石収弘

 

〇関連学区まちものがたりリンク
羽根学区 羽根学区まちものがたり
岡崎学区 岡崎学区まちものがたり

 

〇ライター:内藤昌康
1971年生まれ、岐阜県出身・西三河在住。高校時代、西岡崎駅や愛知環状鉄道の開業初日を見届けるため岐阜からわざわざ岡崎を訪れた経験を持つ岡崎マニア。遠隔地で岡崎産石造物を探して原稿を書くのが趣味。

〇掲載日

2017年9月11日

LINEで送る

Let’s
Share!