岡崎ルネサンス

岡崎の“〇”にナるまちのものがたり

秦梨の偉人 荒川同楽

インフォメーション
場所: 岡崎市秦梨町(秦梨城跡入口の句碑)
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秦梨の偉人 荒川同楽

医者として、俳人として、人生の半分以上を秦梨の地で過ごした荒川同楽。2017年発行の「秦梨学区まちものがたり」でも、秦梨学区民なら誰でも知っている地域の偉人として紹介した同楽さんの足跡をたどります。

 

 

 


”同楽さん”と親しまれ、
カルタにも登場する偉人


 地域の医療と文化を先導した偉人、荒川同楽。50年以上にわたって秦梨小学校と生平小学校の校医を務め、その住まいが現在の秦梨町字遠行にあったことから、特に秦梨学区にゆかりがあります。学区内には、その功績を偲ぶ句碑があり、また地域で作る「秦梨ふるさとカルタ」にも登場するほどです。その職業や人柄などから同楽先生、同楽山人、同楽翁など、さまざまに呼ばれますが、今回はカルタと同様に、親しみを込めて”同楽さん”と呼んで紹介していきます。
 

「俳句の名人 同楽さんは 校医さん」と詠まれています。「新春秦梨ふるさとカルタ大会」を行う小学校の子どもたちをはじめ、学区のみなさんが同楽さんのことを知っています


秦梨町字遠行にあった同楽さんの旧邸。乙川に近く、木々に囲まれた場所でした


秦梨小学校の中庭にある、1974年(昭和49年)建立の句碑。「ものいわで うなづく癖や 入学児」という句が記されています


同楽さんの旧邸跡と道を挟んで向かい側、秦梨城跡入口にある緑地。同楽さんはじめ、稲香吟社の同人の句碑が並んでいます


この緑地には同楽さんの句碑が2つあります。高さ2mほどの大きなほうが、米寿を祝って建てられた「平然と 愚を守り来て 今朝の春」の句碑です


もうひとつは喜寿の祝いで建てられたものです。子どもが句碑を撫でて遊べるようにと、同楽さんが高さを50cmほどに留めたそうで、「秋風や 山居楽しむ 我にして」と刻まれています

 

 


父母の思いを胸に勉励し、
医者となって、秦梨へ

 

 同楽さんは、1863年(文久3年)に知多郡成岩町(現在の半田市)に生まれました。幼名を鼎太郎といい、後に鼎(かなえ)となりました。荒川家は南北朝より600年を超える漢方医の流れを汲む家系で、その20代目の父、杏造(きょうぞう)の長男だった同楽さんが医業を継ぐことは必然だったといえます。しかし同楽さんが9歳の時に状況が一変します。父親が他界し、一家の生活を、母、きくが支えることになったのです。経済的に苦しい生活が続き、やむを得ず、同楽さんと弟は叔父の家へ預けられ、奉公をしながら医業の道を目指すことになったのです。
 本格的な医学の勉強は、同楽さん14歳の時、1876年(明治9年)の名古屋愛知病院附属医学講習所への入所に始まりました。その後、1878年(明治11年)に岡崎病院副教師の蜂須賀謙吉に師事し、1879年(明治12年)に東京済生学舎に入舎。最終的に1883年(明治16年)に知多郡の愛生舎に入舎し、5年後の1888年(明治21年)に医術開業試験に合格しました。同年、念願かなって、母が待つ故郷、知多郡成岩町で開業したのです。
 医者として軌道に乗ったようにみえる同楽さん。では、なぜ秦梨に来ることになったのでしょうか。それは本当に偶然のことでした。たまたま病気療養で秦梨を訪れた愛生舎院長の金山政五郎が、河合村が無医村であることを知り、そのことを同楽さんに告げたのです。恩師の言葉に思うところのあった同楽さんは決心し、1894年(明治27年)に秦梨で移住開業しました。それから唯一の医者として村民の健康を管理し、1898年(明治31年)には秦梨・生平両小学校の校医にも就任。河合の子どもたちの成長を見守り、健康に寄与し、親子三代でお世話になった村民もたくさんいました。


同楽さんが「知雨山房(ちうさんぼう)」と名付けた住居は、道路拡張に伴って須佐之男神社のある山頂近くに移築されました。写真は移築時の記念撮影だそうです
 
移築後の旧邸は平成29年9月に取り壊され、今は石碑だけが立っています

 

 


俳句との出会いと
正岡子規との交流

 

 さて同楽さんの俳句との出会いは、愛生舎で同じく書生だった西尾市出身の浅井意外に勧められたことでした。1929年(昭和4年)の新三河新聞に「俳人同楽の三十年」という紹介があるため、同楽さんが俳句を始めたのは35歳か36歳の頃と思われます。意外は「初心(しょしん)」、同楽さんは「稲香(いなか)」という俳号で「ホトトギス」に投句し、互いに切磋琢磨したそうです。
 1899年(明治32年)2月に「風冴る 障子に穴の 二つかな」の句がホトトギスに初入選。同年4月には「早贄の 蛙からひし 木の芽かな」の句も入選し、この時の選者が正岡子規でした。同年秋には子規の病床見舞に栗と松茸を贈り、翌年に直接見舞いに訪れて初対面を果たしました。その翌々年の1902年(明治35年)8月に再び見舞いに訪れ、その9月に正岡子規は亡くなりました。
 子規は日記で同楽さんについて、こう綴っています。「真率にして些(いささ)かも隠さざるところ、太(はなは)だ愛すべし」と。同楽さんの人間性への共感が述べられており、直接会ったのは2回だけでしたが、強い心の結びつきが感じられます。


正岡子規

岡崎市内の同楽さんの句碑は、秦梨町のものと併せて6つあるとされ、こちらは柱町の庄司田公園近くの観音堂にある句碑です。「巌窟を 仰げば尊と 風かほる」と刻まれています

南大須町の須佐之男神社の神橋のたもとに立つ同楽さんの句碑。「神橋に
 立つや清みの 青あらし」と刻まれています

中町の総持尼寺にある「独居て 静けさうれし 花吹雪」の句碑。同楽さんの句は、岡崎市立中央図書館にも所蔵されている句集「稲の香」などで読むことができます

こちらは同楽さんが建立した、敬慕する芭蕉の句碑です。「草の葉を 落つるより飛ふ ほたるかな」という句が刻まれ、美合町の「岡崎ゲンジボタル発生地」の碑の前に立っています

 

 


好奇心旺盛ながら
飄々とした人柄

 

 茶ぼけた羽織はかまを着て、自転車をこいで往診に出かけていたという同楽さん。自身のことを「職業は医師、趣味としては漢詩・俳句・書画・骨董・盆栽・旅行・囲碁・印影・和歌・その他酒と悪いことを除いては何でも好きなり」と紹介する文章が残されています。
 本人を知る人たちは、天衣無縫、豪放磊落、自由奔放、知己満々などの言葉でその人柄を表していますが、金山政五郎の孫の金山正敏さんは、政五郎の門下生の集まりで碁を打つ同楽さんの様子をこう振り返っています。「私は碁のことは判らなかったが、始めから終わりまでその海坊主のような人が喋りまくるのが面白かったのである。手放しで喜ぶかと思えば、怒髪天を突いて悔しがり、呵々大笑して勝利に酔うかと見れば、憮然としてうち萎れる。その無邪気な動作表情は、どんな落語家よりも面白かった(一部抜粋)」と。小学生の男の子には、随分ユニークなお爺さんに映ったようですが、その愛すべき人柄を見事に表現しています。
 1952年(昭和27年)、同楽さんは秦梨小学校を辞職し、病気療養のため長男の真澄さんの住む豊橋の家へ移ります。病後、右手が不自由になったそうですが、一生懸命に練習して動かせるようになり、1957年(昭和32年)に95年の生涯を閉じるまで、右手で文字を書いていたそうです。
 

写真嫌いだったという同楽さん。いわゆる肖像写真は大変少なく、貴重だそうです

※岡崎市立中央図書館所蔵

 


今も秦梨に根付く
同楽さんの功績

 

 医療や俳句のみならず、地域にさまざまな影響を及ぼした同楽さん。毎年小学校の卒業生へ漢和辞典を贈っていたそうです。亡くなった後には基金が設置されて、その思いは学校や地域に受け継がれ、今日も秦梨の子どもたちに届けられています。
 また書にも定評があったとのことで、秦梨在住の蒲野泉さんに書をはじめとした作品や記念の品を見せてもらいました。「親父は同楽さんにとても可愛がってもらって、俳号も1字もらって同白としたほど。俺は子どもだったから注射を打つ怖い人でもあったけどね」と、懐かしそうに話してくれました。同楽さんの軸や柵などは、ほかにも数多く秦梨の家々に残されているそうです。
 
米寿の記念碑と同じ句が書かれています。蒲野泉さんの父親である蒲野政市(同白)さんは同楽さんを慕い、稲香吟社の同人としても、とりわけ懇意にされていたそうです

村の人にお願いされて、自分の家のある風景を描いたとされる絵。横約25cm、縦約12cmのサイズに、あっという間に描きあげてしまったそうです


同楽さんを慕ってお茶や俳句などをたしなんだ人たちが集まった会があり、これは、そこに掲げられた茶室扁額のようです。孟宗竹の地下茎近くの太い部分で作られており、瑞穂庵の書は同楽さんによるものと思われます

 


 秦梨には同楽さんに心酔して結成された「稲香吟社(とうこうぎんしゃ)」という俳句会もありました。今はもう無いそうですが、現在も「秦梨俳句会」という会があり、月1回活動をしていてます。会のみなさんからは「”秦梨の自然”は俳句の題材の宝庫」と、教えてもらいました。同楽さんも乙川の清流をはじめとした秦梨の自然を愛しており、同楽さんの命名による「天恵峡」という渓谷があるほどです。そのネーミングからも深い愛情や畏敬の念が感じられ、秦梨の豊かな自然が、私たちと同楽さんをつないでくれているようでした。


昭和56年に発足した「秦梨俳句会」のみなさん。毎月第1土曜日に秦梨市民ホームで俳句会を開催しています

天恵峡には「いぼあらい」という枯れることのない不思議な水がありますが、こちらも天恵水と名付けられました。写真は名称碑が建てられた記念撮影のようで、右から2番目が同楽さんです


天恵峡。秋になるとカエデが鮮やかに色づき、俳句を詠んでみたくなるような美しい紅葉が見られます

 

 

●道楽さんの年表


 

 

 

 


〇取材協力:
秦梨小学校
秦梨俳句会
蒲野泉
川澄善久

 

〇参考文献:
「新編岡崎市史」/発行:新編岡崎市史編纂委員会
「岡崎の人物史」/編集:「岡崎の人物史」編集委員会
「資料 同楽山人」/著者:角谷米三/発行:研文社
「日記 同楽山人」/著者:角谷米三/発行:研文社
「岡崎市医師会史」/発行:岡崎市医師会

「稲の香」/著者:同楽山人(荒川鼎)

 

〇関連学区まちものがたりリンク  秦梨学区まちものがたり

 

〇ライター:小嶋かおり
愛知県豊田市(山間部)出身。三河を中心としたタウン誌の編集に始まり、フリーランスとなって東海地方の旅の情報誌を中心に執筆。生家を出て初めて住んだ場所も、高校も、初就職も、現在の出没地も岡崎…「隠れ岡崎市民」を自負しております。

 

〇掲載日
2017年10月20日

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